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中学生でも楽しく分かる日本の歴史③聖徳太子と蘇我馬子

聖徳太子こと厩戸王

厩戸王は「仏教」に対する学びの姿勢がとても素晴らしかったようです。

同時に10人に話しかけられても聞き分けられる能力がありました。知らんけど。

「仏陀に近い存在」という説や、「そもそも存在しない」説まで振り幅は凄いです。

ある日、高句麗からお坊さんがやってきます。厩戸王は仏教の本場の話が聞きたくてたまりませんでした。この頃「隋」という大国があったのですが、まだ倭国は関りを持てていませんでした。

目指せ対等外交!遣隋使派遣1回目

厩戸王は隋に遣いを送ります。仏教や政治について学びたいことが沢山あったからです。これが 「遣隋使」 の1回目です。

真の目的は「対等外交の要求」です。

これまでも権力者たちは「俺は中国に認めてもらってるぞ!」って自慢して権力を得ていました。

それを「我が国は隋とも対等だ!」という状態にしたかったわけです。

しかし、1回目の派遣では、隋の皇帝に会うことすらできなかったそうです。

隋から見れば倭国は何もかも遅れている国でした。厩戸王はショックを受けましたが、目標ができました。

「成長するぞ!」って思ったわけです。ここから厩戸王は大活躍します。

聖徳太子の政治 「冠位十二階」

厩戸王は、「冠位十二階」を制定します。これは身分制度の事です。

思い出してほしいのですが、倭国は「氏」という身内中心の集まりを作って、それぞれの「氏」に「姓(かばね)」という地位を与える事で身分を決めていました。

何も努力せず、才能の無い人でも、身分の高い「氏」に生まれれば高い地位が得られます。逆に、優秀で努力をする人が身分の低い「氏」に生まれてしまうと、その地位で埋もれてしまう。これが「氏姓制度」です。

厩戸王はそれって変じゃない?って思いました。

「もっと個人の能力みて評価しようよ。生まれで地位が決まるなんて国が成長しない!能力で地位は決めた方が良い!頑張っている人は評価します!」

こう変えたわけです。

「才能は活かせるところで活かしてください!適材適所!」厩戸王

冠位十二階の「冠」に注目です。これは6色の帽子を被らして身分が分かるようにしたんです。

十二階はこのランクが12に分けられていたことから十二階って言います。

こうすることで国民の意識の底上げを行ったわけです。

「頑張れば俺でも地位が上がるのか!」と燃えますね。

聖徳太子の政治 「十七条の憲法」

それと、「十七条の憲法」という役人の心得をまとめたものを作りました。

簡単に言うと「天皇様最高」って言うたり、「人に逆らわないで平和にね」って言うてます。

代表的なものに「三宝を敬え」というのがあります。

この三宝というのは、「仏」「法典」「僧」のことです。

厩戸王は仏教を広めたいという心も凄く持っていました。国を仏教で変えていきたいと思っていたのかもしれません。

要するに、「天皇が国のトップですよ。絶対に言うこと聞いてくださいね。それで三宝大切にしてたら平和になるよね」って言うてます。

蘇我馬子が推古天皇を推薦したのは、自分の言うことを聞いてくれるからですよね。でも厩戸王は優秀すぎました。

馬子が厩戸王のことを嫌っていたかは分かりませんが、ちょっと凄すぎると恐れていたかもしれません。

でも嫌なら暗殺できるので、暗殺しないってことは上手くいってたのかもしれません。

みなさんはこの二人の関係どう思いますか?

僕この二人が仲良かったらええなーって思ってるんです。想像すると歴史面白いですよね。

2人は結構意見がぶつかってたらしいです。そこに推古天皇が「まあまあ、落ち着いて」ってバランス取ってたのかもしれませんね。

厩戸王は飛鳥宮から斑鳩(いかるが)に遷都します。

2回目の遣隋使 小野妹子

厩戸王と小野妹子(おののいもこ)と言えば、手紙です。

当時の船での航海なんて命懸けもいいところです。でも妹子は厩戸王の強気な姿勢に胸打たれて頑張ったんだと思います。その手紙を受け取り妹子は隋の「長安」に向かいます。

妹子は隋の皇帝に会い、預かってきた手紙を隋の皇帝「煬帝」に渡します。「太陽をも焼き尽くす皇帝」という意味でしょうか。煬帝は暴君でした。

「日出づる処の天子 書を 日の没する処の天子に致す つつがなきや」

煬帝はこれを読み、ぶち切れたそうです。全員死罪になりかけます。

「誰が日の没する処の天子やねん!!!」「天子はこの俺様、煬帝1人じゃ!!!」めちゃくちゃ怒ったみたいです。

厩戸王は対等な関係になろうぜって言いたかったんです。

素晴らしい外交

無事に済んだのは、小野妹子がもの凄く優秀だった可能性もあります。

何と言っても厩戸王に選ばれた男ですからね。妹子って言うてますけど男です。←これ言うの恥ずかしいです。

この頃、隋は高句麗と緊張状態でした。なので、そんなタイミングで倭国と揉めたくなかったのです。

遣隋使が成功したことで「留学生・留学僧」が認められ大国の文化や政治を学ぶことができました。

この留学生・留学僧たちが学んだことが、後にとても影響します。

高向玄理(たかむこのげんり)南淵請安(みなぶちのしょうあん)旻(みん)

何となく覚えておいてください。

このあと5回くらい遣隋使が送られているのですが、そのくらいで隋が滅びます。暴君の行う政治では長続きしません。煬帝は二代目の皇帝でした。

推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人は隋の社会情勢も考慮した上で遣隋使を向かわせたのではないかと言われています。ハイレベル外交です。

飛鳥寺と法隆寺

厩戸王も仏教の繁栄を願って法隆寺を建てました。法隆寺の五重塔は世界最古の木造建築物として国宝になっています。

同様に馬子が飛鳥寺を建てたことからも仏教に真摯に向き合っていたことが分かります。蘇我氏って悪者のイメージが強いと思うのですが、馬子は良い奴だったんじゃないかなって思います。深く学んだ訳ではないので何となくの希望です。

大活躍だった厩戸王は49歳で息絶えました。

つづく

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