中学生でも楽しく分かる日本の歴史④皇子と鎌足最強のタッグ!乙巳の変!
厩戸王は天皇中心の政治体制を目指していました。
厩戸王の死後、国は天皇とは名ばかりの政治体制になっていきました。
では、誰が権力を握っていたのでしょうか?
もちろん蘇我馬子です。
やっぱり、蘇我氏です。しかも、その権力は莫大でした。
なので長い期間、最高権力者だったのは蘇我氏です。
また豪族の時代ですね。
蘇我馬子の優秀な孫!!とライバルたち!
馬子の息子が 「蘇我蝦夷(えみし)」です。
その蝦夷の息子が「蘇我入鹿(いるか)」です。
今回から蘇我氏の重要人物は 「蘇我入鹿」です。
遣隋使から遣唐使へ
「隋」が滅びて建国されたのが「唐」です。
倭国は遣唐使を送り、様々なことを学んでいました。
2人の天才!入鹿と鎌足
遣隋使として派遣されていた「旻(みん)」という留学僧が唐から帰国し、入鹿に勉強を教えていました。
入鹿はとても優秀でナンバー1と言われていました。が、その入鹿に劣らずの天才がいました。
それが「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」です。存在感ありまくりの名前です。
推古天皇の時もそうでしたが、誰が天皇になるのかを実質コントロールしていたのは蘇我氏でした。
入鹿は絶対的な権力を失いたくないので、自分の血縁にあたる天皇候補を天皇にしたいと考えていました。
しかし、他に優秀な天皇候補がいました。
その天皇候補の筆頭が 「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」です。
彼が優秀なのはそのはず、山背大兄王は何を隠そう 「聖徳太子」 の息子です。しかもお母さんは馬子の娘です。厩戸王と馬子の血を引いています。
入鹿は皇極天皇という女性の天皇を即位させます。
その皇極天皇の息子が「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」です。
入鹿は不愉快でした。優秀な存在が立ちはだかるのが嫌で嫌でたまりません。
斑鳩宮に山背大兄王は暮らしていたのですが、入鹿はその斑鳩宮を焼き払いました。
ここで山背大兄王はどうしたのか。やはり聖徳太子の息子です。
仏教を学んだ優しい山背大兄王は何もやり返すことなく自害しました。手も足も出ずにやられたのではありません。何もやり返さなかったのです。最後まで命に代えても争うことをしませんでした。
乙巳の変!皇子と鎌足vs入鹿
入鹿の父、蝦夷も入鹿の行動に激怒しました。入鹿は優秀な能力を正しい方向へと使うことができていませんでした。
そんな入鹿を何とかしようと作戦を水面下で進めていた人がいます。共に旻から学びを授かっていたもう一人の天才、中臣鎌足です。
鎌足は蘇我氏を滅ぼした後の天皇に相応しい人物を探していました。
そこで見つけたのが中大兄皇子です。二人が手を組むことになったのには共通の目的があったからです。それが、唐の長安のような「中央集権国家」です。
中央集権・律令国家を目指すという共通の目的が二人の絆を強くしました。
作戦会議!
2人は唐の文化を伝えていた留学僧の 「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」から色々と学びを得ていました。
2人は定期的に作戦会議をしていました。
蘇我氏からも仲間を引き込みます。それが「蘇我倉山田石川麻呂」です。
「麻呂」の部分以外が苗字で使う漢字の面白いキャラです。(そがのくらやまだのいしかわまろ)って言います。
討伐が計画された日、朝廷に朝鮮半島から使者が来る日でした。その儀式に入鹿も参加することになっていたのです。
海外の使者の方に失礼にあたるという口実で入鹿の武器を預かり、作戦は決行されます。
儀式中、蘇我倉山田石川麻呂が手紙を読みます。その間に仲間の2人が入鹿に斬りかかるという作戦でした。
しかし、手紙が読み終わろうとしているにも関わらず、仲間の2人は入鹿の覇気に圧し負け、足が震えて作戦を実行できずにいました。
建物の屋根の上で弓を持ち待機していた鎌足もそれに気づきます。そして入鹿に矢を向けます。
入鹿「お前、汗だくやで?」手紙を読みながら汗だくで震える蘇我倉山田石川麻呂に声を掛けます。
入鹿「何隠してるねん?」とさらに詰め寄ります。
「もうだめだ。俺が行くしかない!」と剣を振りかざしたのは中大兄皇子でした。
鎌足も気を抜くことなく弓を構え続けます。
中大兄皇子の振り下ろした剣に入鹿は斬られてしまいました。
武器を持たない入鹿もこの状況ではどうしようもありませんでした。
こうして中大兄皇子と中臣鎌足の強力タッグにより絶対的権力を有していた蘇我入鹿を討伐したのでした。これが「乙巳の変」です。
新政治体制に向けて
母親である皇極天皇の前で行われた計画だったのですが、皇極天皇にはショックが大きすぎる事件でした。
大王の位も中大兄皇子に譲ると言ったそうです。
鎌足「今、皇子が大王に即位すると、この計画は大王になりたかったから行ったテロ行為だと誤解を生んでしまいます」
中大兄皇子「なるほど、、」
なので、代わりに即位したのが孝徳天皇です。
鎌足は「内臣」として軍事面の責任者となり活動することになります。
唐で学んだ留学僧の「旻」と「高向玄理」は国博士となりました。「国博士」というのは、新しい政策を考えたりする役職です。律令を目指す上で大切な役職です。
こうして中大兄皇子と中臣鎌足は新しい政治体制の確立を目指していくのです。つまり、中央集権国家を目指します。「律令」です。
好スタートを切りたかったのですが、蘇我氏の長きに渡る政治が根付いていたこともあり、不満を抱く人々も多くいました。
なので、都を飛鳥宮から難波宮に移します。蘇我氏の影響の少ない場所でスタートしたかったと考えられます。
この大化の改新について理解するかしないかがこれからの繋がりを理解するためのポイントになります。
つづく
