中学生でも楽しく分かる日本の歴史⑳藤原道長と藤原頼道 藤原の全盛期
前回は平将門と藤原純友が乱を起こして、西や東で暴れた話をしました。要するに武士という存在が力を付けてきたってことです。
そして、今回は遂に「藤原」の全盛期の「藤原道長」と「藤原頼道」が登場となります。
藤原と言えば、この2人ですよね。
「他紙排斥」後の身内での抗争
今から細かい藤原の摂関の流れを書いていきますが、ちゃんと覚えようとしなくていいですよ。(笑)
朱雀天皇の頃の摂関「藤原忠平」には(息子AとB)がいました。
摂関についた順番としましては、以下の通りです。
①良房→②基経→③忠平→④息子A(実頼)
→⑤伊尹(息子Bの息子)→⑥兼通(息子Bの息子)
→⑦頼忠(息子Aの息子)→⑧兼家(息子Bの息子)
この⑧兼家が「道長」の父親です。
道長のお姉ちゃん「詮子」
兼家は娘の「詮子(せんし)」を円融天皇に嫁がせます。
その詮子の息子が「一条天皇」です。なので、兼家は天皇の「外祖父」になることで摂政に就任しました。
「詮子」は道長のお姉ちゃんです。
道長は四男だったので、摂関の可能性はほとんどありませんでした。
道長自信もお兄ちゃん達が摂関になれば良いと思っていました。
道長の兄・藤原道隆
⑧兼家の次に摂政になったのが道長の兄「⑨道隆」です。長男なので妥当ですね。道長は自分がなるなんて思ってませんから兄の摂政就任を喜んでいました。
兄の「⑨道隆」は関白にも就任します。
その⑨道隆兄貴が娘の「定子(ていし)」を一条天皇に嫁がせます。
⑨道隆兄貴には息子の「伊周(これちか)」がいます。
伊周が22歳の時に道長が30歳でした。なのに、⑨道隆兄貴は道長よりも若い息子の伊周を道長よりも上の位に位置付けてました。
道長も「ん?なんなん?」ってさすがに思います。
でも、道長は四男でしたから、まだ兄貴たちの政治を応援しようとしてました。
次の関白誰にする問題
ある時、⑨道隆兄貴が次の関白は息子の伊周にするって言いだします。
「だから、伊周は若すぎるって。次は道兼兄貴がなる番やろ?」道長
「でも、道隆さまが伊周って言うてます」
「ちょっと、アカンな。これはアカンわ」
「道隆さまは病気だから焦ってるんですかね?」
「それで藤原を終わらせるわけにはいかんやろ?」道長
「はい・・・」
「兄貴のこと応援するつもりやったけど、これは反対するしかないわ」道長
という感じで、遂に藤原道長が摂関の後継者争いに参戦します。
道長vs伊周
⑨道隆兄貴が病気で亡くなり、三男の兄貴「⑩道兼」が関白になりましたが、すぐに病気で亡くなります。7日間やったらしいです。
流れで言うと次の関白は伊周がなるだろうと優勢でした。
けれど、道長のお姉ちゃんの「詮子」が息子の一条天皇に言います。
「次の関白は道長にした方がいいよ。」詮子姉ちゃん
「母さん。え?伊周じゃないの?」一条天皇
「いや、道長の方が優秀やで。小さい時から賢かったもん。」詮子姉ちゃん
「道長さん賢いよね。それは思う。」一条天皇
「せやろ?あんたまだ若いねんから、道長みたいなしっかりした人に政治してもらった方が助かるよ。伊周なんて若すぎるわ」詮子姉ちゃん
「・・・母さんが言うならちょっと考えるわ。」一条天皇
「よろしくね」詮子
こうして、詮子姉ちゃんによって、次の関白が誰になるのかは一旦保留になりました。
やっぱり若い伊周
まだどっちがなるか分からない状態でしたが、伊周が問題を起こします。
「あいつ俺の恋人を取りやがった!許さん!弓矢で討ってびびらしたる!」伊周
この事件で伊周が太宰府に左遷されます。
「やっぱりな」道長・詮子
こうして、次の候補は道長一強になるわけです。
四人の娘を嫁がせる
道長は自分が関白になるだけではいけないと考えました。なぜかと言うと、それでは次の摂関を決める時にまた揉めてしまうからです。
だから、自分の身内で完全に固めてしまえば、そういった揉め事をなくせると考えたわけです。
そこで行ったのが、4人の娘を天皇に嫁がせるという作戦でした。
長女の彰子は一条天皇に嫁がせました。一条天皇はすでに兄貴の⑨道隆の娘・定子が皇后としていましたが、自分の娘の彰子を中宮として嫁がせました。
さっき少し言いましたが、一条天皇には2人本妻がいました。
中宮は皇后くらいの本妻と思ってもらえたらと思います。
でも皇后の定子は2人目の子を出産した際に亡くなります。
定子の子である皇子を彰子が代わりに育てることにしました。
この定子に仕えていたのが「清少納言」です。「枕草子」の人です。
道長の娘の彰子に仕えていたのが「紫式部」です。「源氏物語」の人です。
定子が清少納言と一緒にいて賢かったので、彰子にも賢くなってもらいたいと考え紫式部を仕えさせたみたいです。
その後、彰子にも一条天皇との皇子が産まれることとなり、道長は外祖父として完全な地位を得ることとなります。
道長遂に摂政へ
この道長の孫が後一条天皇です。こうして道長は摂政になりました。
でも、道長はすぐに息子の藤原頼道に摂政の位を譲りました。
そして、あの有名な歌を詠むわけです。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」
「この世は自分のためにあるみたいだ 満月みたいに欠けてるところはない」
っていう凄いスケールのことを言うくらいな人でした。
しかもめっちゃイケメンやったみたいです。
息子・藤原頼道の50年間
父である道長がばっちり固めた権力のもと息子の頼道も大活躍しました。
京都の平等院鳳凰堂を建てたのは頼道さんです。
後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇と三代に渡って摂政・関白として50年もの間政治をしました。
道長同様に外祖父として権力を保つために自分の娘を天皇に嫁がせましたが、残念なことに皇子が生まれませんでした。
外祖父になれなかったってことですね。
よって、後三条天皇が即位したタイミングで藤原の絶対的権力が衰退していきます。
後三条天皇は藤原とは関係が薄かったんです。
次回は藤原の時代ってに実は朝廷の外では反乱が起きていたんだよ。っていう話をしていきます。
では、また二日後に会いましょう。
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